昭和54年08月04日 朝の御理解
御理解 第69節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
この御教を頂きます時に、教祖様のこのこういう御理解を下さった時の、まぁ心の状態というものを、実は押し計りかねるんですけれどもね。信心はみやすいものだけれども、氏子から難かしゅうすると。なる程まぁ殆どの宗教というのには、必ず厳しい修行が伴う。戒律等というたらもういよいよもっていかめしいまでに難しい。それを教祖の神様は、此の方の行は火や水の行じゃない、家業の業というように、家業そのものを行と仰せられたり、又は此の方の行は、心行じゃとこうおっしゃる。
心の行じゃと。ですからそんなに信心するからというて、水をかぶったり、断食をしたりする程しの難しい事ではないぞと。まぁそう言う様な意味で教えられたのであろうか。ところがなかなか、これを頂いておりますと、難しいところが出て来るわけですね。十年と信心が続いたら、われながらわが心をまつれと、おっしゃっております。この辺に至りますと、分からなくなるです。やっぱり。わが心が祭れる程しの信心が、そのみやすいという信心で果して出来るであろうか。
なる程その日その日のおかげを受けていけばと、最後にこう結んでおられます。その日その日のおかげを受けていけば立ちいこうが、みやすう信心はするがよいぞと。お参りをするお取り次ぎを頂く、様々な難儀な問題といったものが、皆あるんですけれども、その難儀な問題もお取り次ぎを頂いて、いうならその日その日のおかげを受けていけばよい。その日御理解を頂いて、あんたは難儀困っておるというけれども、その事をあんたかえってお礼申し上げならん事だよと。
いいえもう今日食べる物がありません そんならお繰り合わせをお願いして、ちゃんと今日一日頂けたら、それでよかろうが明日は明日だ、とお取り次ぎを願うと、たしかにおかげを受けるんです。ですからならやはりそこになってまいりますと、信心はみやすいという事になってくる。ただ取り越し苦労すりぁ、さぁ今日食べてしもうたら、明日はどうじゃろかと、明日の事を心配すりぁ難しいけれども、その日その日のおかげ受けていけばというおかげを頂いていくという事は、やはりみやすい事である。
けれども中々我が心が拝めれるとか、祀れれるという程しの事が、十年位の信心で出来る様になるだろうか。昨日の御理解を頂いた後に、婦人総代であります秋山さんがお届けされるのに、全く今日の御理解を頂いて、昨日一日私が通らせて頂いたそのままの事が昨日はございましたが、まぁ信心とは有り難い楽なものじぁとお届けされました。
二番目の息子が修行生として今ここで修行中です。長男もどうでもお道の教師にと両親は願っておりますけれども、本人はまだ娑婆の方からなかなかまぁ、足を洗う事が出来んでおります。晩おそうに、友達と飲みに行って、まぁ酔うたもんで友達二人が送って来た。それもあんまり良くない友達だったそうです。まぁいうなら、ぐでんぐでんに酔うて帰って来た時に、又飲んでとか又この人達が飲みに連れて行ったばいのとはさらさら思わなかったち。
もうそして、二人の人達にも貴方達も酔うとんなさるから、自動車じぁ危ない。泊まっていきなさい。と、しきりにいうたけれども、気の毒がってまぁ帰ったと。けれどもその後から、その人達の事を祈らせて頂いとったら、間もなく電話が掛かって来た。「光幸を起こしてくれ」、息子の名前。もう片一方は酔うとるから起きらん。ところが酔っぱらい運転で帰り道、田圃に突っ込んで、自動車は目茶苦茶になっとる おかげで僕達はどうもしとらんけれども。
とにかくならおばしゃんのところまで来なさいというて見えた。それでもまぁ息子は起きらなかった。そんならあんたんところまで私が送って行ってあげぇちというたら、まぁ遠慮するという。それでも送ってやろというたら、嫁御が降りて来てからそのいう事が、「お母さんあんまり無理いいなさらんがよかですが」ち。あの人達はいつも光幸さんが、ありどん達とは付き合わんいわれとるとに。
今日も付き合わされてあげん飲うできとるとじぁちから、もうかえって歩いてぼちぼちどこまでか知らんけれども、歩いて帰んなさるがよかですがちいう。そりもそうたいの。というてまぁその事をお届けなさるのです。自分の心の状態が良くない時ならね、又こげん飲んで来てから、まぁこの友達がこの人達どんがと、言う様な思いがするのでしょうけれども、こちらの心が瑞々しいまでに信心のいうなら一日の行がいうならば。
朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さというところでその締め括っておるところへですから、有り難いばっかりで、それを受ける事が出来たとこういうのである。それでもう休むのはほんなちょっとの時間でしたけれども、朝の三時には前十分いつも毎朝、朝の御祈念に参りしてくる時間には、すっきりした気持ちで目覚ましのおかげ頂いて、今日はおかげ頂いて、確かに今日親先生が話になった話は、そのまま本当だそうだとこう思うたというお届けがありました。
そこに起きてくる問題を一つも、普通でいうならもう難儀な問題ですよね、というよりもいやな問題ですよ。小言の一つも言いたいところなんですよ。けれどもね、こちらの心の中に頂いている、その有り難いというものをがですね、それを一つも困った事ともまぁ、相手の事を憎むとか、恨むとかいう心がさらさらない。そしてなる程そういう例えば、信心生活が出来ている限り,晩に眠れないような事はない。という昨日の御理解でしたよね。そして有り難い目覚ましのおかげも頂けるという御理解でしたよ。
そういう心の状態で、休む時間はほんのちょっとだったけれども、その目覚ましの清々しい目覚ましといい、休む時にもうアッという間に熟睡のおかげ頂いておる事といい、とにかく一日の信心の状態というものが信心生活、いや本当の信心を身につけられにゃ出来る事ではないという事なんです。その起きてくる問題を、はぁ難儀な問題困った問題、いやの奴だと、その憎いとかそのまぁ小言の一つもいわねばおれない心と言った様なもの、そういう心ではいけない。
私は今日の御理解頂いてですね、信心はみやすいというが、ここまでの信心がでけた時に始めてみやすうなるのじぁないでしょうかね。昨日はここの丸少が久留米祭に出ました。皆さんも御覧になったと思いますけれども、三時から四時までの久留米祭の実況放送がございました。中で合楽教会吹奏楽団、丸少吹奏楽団という。見終わって思いましたけれども、そのまぁ本式に稽古した楽団というのは、いつも日本ゴムの吹奏楽団はあれは日本一の定評がありますから見事でしたけれども、今年は出ませんでした。
それで合楽のだけがころっとして、まぁ結局拍手喝采を受けたようでしたけれどもね。結局バンド員の丸少達が、あれを昨日は新しい曲を二曲あちらで披露したわけですね。もう今度はあのうこしらえも中々良かったですし、水兵さんの恰好でね。それからこんな小さいのから、皆んなこの自分では持てないような楽器を持ってしとるし、それがきっちと本式にやるという事が素晴らしかったです。
もう本当にありゃ今日の小頭町公園でのいろいろの事があったけれども、合楽がなかったならば、それこそ泥臭ぁい事ばっかりだったね。というて見終わって申しました事でした。なら始めから出来るという者は、誰ぁれも居りりゃしません。もう途中でもう止めた止みゅごたる。それでも又いっちょ本気でやりだして、あれだけの事が出来るようになったのです。そしてならあのう私が感心しました事は、皆がにこにことしてやっておる事です。もうみやすうやっておるという事です。
始めからみやすいという事はなかったでしょうけれども、本式に基本的な勉強をして、そしてそれにのっとっての、いうなら吹奏であるというところに、いよいよそれが身につき手に入ってしまってから、それを実際にやります時には、もう楽しゅうてこたえんというふうで、皆が演奏を終わりました。信心も私はこれだと思うんです。みやすうとおっしゃったのはそういう事じぁないでしょうか。
ただお参りをした、お願いをした、おかげを頂いた、その日その日の立ち行きという事のおかげだけではなくて、信心の基礎基本というものが出来てね、それが手に入ってしもうて、秋山さんの話じぁないけれども。一日を朝の清々しさでしょう、朝お参りしてくるから。しかも自分の車に誰彼をちょっとお導きしてお参りされる。お商売しておられるから日は一日有り難い。それこそ忙しい一日であったであろう。
その事をしめくくって、もう心からお礼のいえれる状態、そして信心の何かという事が例えば難儀の実態というものが、分かっておらねば出来る事ではない。信心の事わけというものが分かっておらねばね、どういう場合に直面しても、そういう安らかな心で事々を受けて行くという事は出来ない。又困った又難儀な問題である。本当にこんやつばっかりはいつまでん、お酒ばっかり飲んでからとね。しかもこんなに酔っぱらってからと。というような心がね、その微塵も起こってない。
全然問題が問題になっていないという事。私はお道の信心はここ。合楽で信心さして頂いたらね、問題が問題でなくなる程しのものを、先ず身につけねばいけんと思う。そして、なら朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さ、というそこにですね、有り難い安眠のおかげも、同時に朝の目覚ましのおかげも頂けて、今日一日のいうならば、活動素というものがね、もう朝に貯えられておる。又起きらんならん。又今日も一生懸命働かんならんと言った様なものではいけない。
そういう心の状態をですね、私はわが心が祭れるという事ではなかろうか。だからいうならばです、そこの一通りのところが基本がでけて、どんな場合であってもほんに信心がなかなら、こげな時はどげなふうじぁろか、そうにぁ腹を立てた事じぁろう。けれども信心を頂いて、本当な事がだんだん分かりだして、そして有り難いという心の状態では、それがさらさら自分に心にかかってないという事は、有り難いなぁと思う時に、すでにわが心が拝めている時であり、わが心を祭っておる時であると私は思うです。
そういう信心になっていけばねみやすい。しかもならみやすいからというてね、そりぎりの事ではなくて、その信心が限りなく繰り返されていくというところに、これがお徳になるのであろうか、これがあの世に持っていけるのであろう、これがこの世に又残しておけるものであろうと言う様な、確かなものになって来るという事なんです。だから信心が、私がここで申しますように,信心というものは有り難うして嬉しゅうしてね、しかも愉快にまでなっていけるもんだというものもです。
教祖の言葉を借りると、信心はみやすいものじゃが、という事の表現が違うだけの事であると私は思うですね。信心が楽しゅうなって嬉しゅうなって、有り難うなってしかもそれが愉快にまでなって来る。しかもその信心がもう極まりないところまで、極められてゆく。限りなくそれが進められてゆく。もちろん限りないおかげに恵まれながらの事なんです。私はこの御教を頂いて、教祖の御神意心の御神意というもが、本当に分からない感じがするんです。
はぁのっけから信心はみやすいもんじゃが、氏子から難しゅうすると仰るけれども。教祖さま、貴方はそう仰るけれども、みやすい事じぁないです。拝むだけでんころっとそれだけは時間をとるし、参るという事になると、お賽銭もいるし時間もつぶす、朝起きもせんならん。という事なんですけれども、信心が身についたらそこでです、いくら何十年信心しよるからというて、やはり何と申しましょうかね。
おかげに追いかけられておるというか、難儀に追いかけられておるというか、もうただお願いせんならん事ばっかり、頼まんならん事ばっかり、の信心で終わるとするならば、信心はみやすいものじぁない難しいもんだと思うです。だから信心の基本になるもの、それを合楽理念を以てするとです、それこそ素人でも合点がいきさえすれば、みやすう入っていけるわけです。例えば今日一日もう本当に土の信心。いうなら今日は一つ本気で黙って治める実験をしてみよう。晩にはその実証が現れて来る。
今日はあそこで一口言おうかと思うたけれども、金光様金光様で言わんですんだ。という一日が繰り返されて行くならです、必ずそこに実証あぁ言わんでおってよかったという喜びが頂けるです。同時におかげまでも伴うて来る筈です。ですから教えの一つ一つを実験する実証していく。信心の基礎基本というものがでけて、私はみやすいという事になる。バンドの皆さんが例えば昨日あの炎天下に、あの二曲の曲を大変難しい曲なんですそれは。それをねみやすうまぁその素晴らしい軽快なリズムが出ておりましたがね。
それにあのう何んちいうですかね、そのう体の動きというのも一糸乱れず、きちっとでけて本当に見事でした。それがなら今日はそうにゃ難しかごたるとをしたとは思うていない。楽しゅうにこにこ笑いながらでけた。ならそれだけの事をやる為には、やっぱり長期の合宿も今度しましたが、それ以前からのいうならばその基本的なもの、私が栄四郎にあげなドンガンドンガンいわするとばっかりじぁ私どんな分からんち。
それでなんかこう民謡とかこう流行歌んごたるとを中に入れたらどうって、そしたら皆んなも親しみなじんどるものがようはなかのちいいました。所がそれをやるとね、その基本がくずれるちいうんです。基本的なものが。だからもっともっと基本的な難しい所、まちっと難しいところを稽古して、その上ででないとすぐはやり歌くらいならすぐ覚えるでしょうけれども、それだけで終わってしまう これは何でも同じですねだから、三味線でもそうですよ。
はやり歌位ならすぐ覚えるけれども、それではね、いうなら本格的に稽古する時に稽古にならんです。我流が出るから。信心も我流が出たら駄目です。もうどこまでもいうならば、合楽では合楽理念にもとずいての御祈念であり、合楽理念にもとずいての、日常生活でありいうなら、そういう基本的なものをしっかり身につけて、おそらく十年するなら絶対わが心が拝める祭れると私は思うです。
こりゃ十年は合楽の場合はかからんと思うですけれども、その基本を稽古しょうともせずに、ただおかげを頂くという事にだけにね、終わりますと何十年信心しとっても信心なやっぱみやすいものと言われるけれども難しいですよ。時間も要るしお金も随分掛かるしという事になる。信心がみやすうなって来ると、時間は神様から頂くもの。お供えは神様からさせて頂くものだという事になって来るから、その時間を大きく使えば使う程、その御用奉仕なら、御用奉仕が大きく出来れば出来る程有り難い事になって来る。
そしてなる程、自分が信心しよるじぁないなぁさせて頂きよるとだなぁ。自分がお供えしよるとじぁないな、神様がさせて下さってあるんだなぁという、いうなら実感もいよいよ強うなって来る。だから大きな御用もまた、出来て来るという事になります。信心をみやすいと思えれるところまで、一つ信心の基本というものを、しっかり身につけたいと思うですね。皆さん。
どうぞ。